2017年2月11日 「京都環境文化学術フォーラム」国際シンポジウムでのパネルディスカッションの記録(PDF)より
2017年2月11日 「京都環境文化学術フォーラム」国際シンポジウムでの記念講演後に行われたパネルディスカッションの記録(PDF)より、#中村哲 医師のお話部分を抜粋。
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) April 25, 2020
前後の話も重要なので、通しで読まれることをお勧めします。オギュスタン・ベルグ氏のお話も興味深いです。https://t.co/r7t3wp7K17
中村:(自然と人間との関係性について)自分は医者なので、医者の立場から言うと、自然というのは単に山川草木、自分の外にあるあれではなくて、我々の体の内部の非常に複雑な代謝も司っているのです。我々自身が自然の一部であると、それも含めて考えなければいけません。
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バベルの塔は、技術がどんどん進んで、人間が神様より偉くなったような錯覚に陥り、奢った人間が罰を受けるという物語です。今はバ【ベ】ルの塔をバ【ブ】ルの塔と言い換えてもいいでしょう。そこで神がどういう罰を与えたか。ある日突然、人間同士のコミュニケーションができなくなったのです。
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言葉が乱れて、ばらばらになってしまった、そして、みんなが散っていったという物語です。まさに今はバブルの塔の時代だと思います。自然を自分たちが儲ける対象にして、それをネタにして自分たちの地位を上げるだけでなく、人間が神よりも、自然よりも高みにあるような錯覚をつくり出していく過程、→
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→ これが恐らく近代化だと思うのです。ということは、それなりの罰を受けるのではないかと思います。単に外の自然が破壊されて、食べ物が足りなくなるというだけではなく、人間の内部にある自然、いろいろな代謝機能や脳細胞の働きさえも破壊されていくのではないか。
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最近のアメリカ大統領の発言なんかを見ていると、どうもその時期が近づいてきたのではないかという気がするのです。何でもかんでも売れるものにする、経済成長しないと、何でも成長しない、良くならないという錯覚がもう終末段階に来ているのではないか。これは人間の内部を、私達の体も蝕んでいきます
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いろいろな意味で、外的自然、内的自然と向き合って我々が生きていく時代が既に来ているのだと思います。医学の立場から言っても、この間日本でインフルエンザがはやって、タミフルという薬の世界の4割以上が日本に集まり、その順序をめぐって日本中が大騒ぎした。これは終末的な気がしました。
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口蹄疫が流行ったからといって、病気に罹った牛を、いくら家畜とはいえ、何万頭も屠殺してしまう。こんなことが許されるのか。あれは医学的に言うと、ただの流行病なのです。確かに、流行ると子牛の死亡率は高くなりますが、罹った牛はそれ以上病気にならないという一種の自然免疫製造過程なのです。
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それまで否定してしまうという、行き過ぎた局面を見ると、相当これはいかれてきたなと思っています。それなりの考え方、哲学を持っていないと、私たち自身もその狂気に巻き込まれていくという気がしています。#中村哲
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ツイッターで投稿しきれなかった中村医師のお話を、以下に引用させていただきます。
山極:最初に中村さんがアフガンはイスラムの世界だとおっしゃいました。宗教的な意味でも日本とは随分遠い世界かもしれません。彼らが自然を理解し、自然の中で生きていくためにも宗教というのは必要だったわけです。でも、中村さん自身はイスラム教徒ではないでしょうし、日本で育ったご経験をお持ちです。その中で、アフガンの中で人々が生きる上で本当に重要なものはまさに環境と一体化した、あるイマジネーションだと思うのですが、そういったことを理解するようになったのは、普通の人はなかなか理解できないと思うのですけれど、その一番のポイントは何かをお聞きしたいです。
中村:自分の生涯の中で一番インパクトがあったのは昆虫採集です。自然と接することですね。何かの虫を見る時、「いる」という目で見ないと、存在が分からない。見ようとするものしか見えないというのが基本的な自然に対する認識です。先ほどから話題になっている風土論というのは、それが共有された世界なのです。ベルクさんは、フランスのこと、日本のことがあって、その違いが初めて分かってくる。そこでいろいろな評価なり理解が生まれてくるという意味では、私にとってその違いを結び付けるものは、昆虫の世界を通して見た生物の共通性が一つありました。それから、私はもともとキリスト教徒です。その前は儒教徒です。最後の論語教育を受けた人間だと思います。そういうことで、日本社会ともギャップを感じながら生きてきた人間です。現地に行くと、ギャップもありますが、共通のものも感じるということで、これは違った世界を複数見られるものの一つの特権ではないかと思っています。総長も、ゴリラの世界と人間の世界とを比べて見ている二つの世界が一つ大きな点ではなかろうかと自分では思います。先ほどの話の絡みで言うと、擬似共通性、それが近代化です。人間というのは同じものだ、同じ幸せを持ち、同じパターンで生活してこそ幸せになれるのだといった誤解がはびこっていく背景には、一つの社会しか知らない、一つの社会の中で利を得る人たちだけの意見がまかり通っていることがあります。全てを商品化し、無限に生産と消費を繰り返さないと生き延びられないような体制が続く限りは、こういった誤解は絶えないのだと思います。しかし、それは反自然的なものですから、やがては絶えるでしょう。
中村:アフガニスタンの飢饉がなぜ問題にならないかというと、たとえ良心的なジャーナリストがアフガニスタンに行っても、「私はアフガン人です」と言う人は都市から出てきた人で、田舎に行くと英語も通じませんし、文化が違うので、全然話がかみ合わないのです。取材がまずできない。メンタリティが自分たちに似ている都市部の人たちから話を聞かざるを得ないという悲劇があるのです。つまり、同じアフガン人でありながら、「水?毎日出ているよ。時々断水があるよ」と答えます。700万人以上の人が飢餓線上で苦しんでいるなんて誰も思っていないのです。彼らの日常生活では、スーパーマーケットに行けば、野菜もある、果物もある、何が飢饉なのだという感じなのです。ところが、農村に行くと何もないのです。本当に何も採れない。せめて水と狭い土地さえあれば、それぐらいは自分で作れるのだけど、それがないといった地域が、かなりたくさん広がりつつあるわけです。そこに、「近代的な生活というのはこうなのですよ。あなたたちのより良い生活のためには、こういったことが必要ですよ」と援助が入ってきます。それが全部悪いとは言いませんが、教育であれ、政治体制であれ、人権活動家の意見であれ、国連人権委員会の勧告であれ、全て都市化の方に向いているのです。即時に全世界がいっぺんにそうならなければいけないという考えのために、地方との軋轢を生んでいる気がします。地方に行くと、全く英語もしゃべれない。まともに教育を受けた人は8割に満たないという状態です。うちの職員でも読み書きできるのは1~2割です。私はこのギャップを広げてはいけないと思います。その地域に根ざして、たとえ我々が嫌に思う習慣、例えば女性の被り物、これはお国なので悪くは言いたくないですけれども、被り物までむしり取るような生活を押し付けてはいけないと思います。まずは時間をかけてそこを見るということと、私たちが向いている近代化そのものがなぜ自然と接触できなかったのか。それはコミュニティで言うと、農村と都市の極端な分離というのが少なくともアフガニスタンでは目立つからです。そこにどうやって入っていくかということが大きな問題になってくるのではないかと思っています。
中村:人間と他の動物との最も決定的な違いというのは、今西さんもおっしゃっているように、自分と自然環境を遮断して適応していくということです。他の動物の場合は、自然が完全にヘゲモニー(覇権)を握って選択していくわけです。人間の場合は、自然環境と自分、内的自然とを遮断します。例えば着物もそうです。寒ければ、着物を着て外界と遮断して適応してきました。これが人間の運命的な反自然的な点なのです。ただし、物事には程度があります。そのこと自体が人間を滅ぼさないようにしなければいけないという知恵をこれから出していくべきではないかと思います。要するに、敵も、味方も、自分の中にあるということです。よく我々は外の批判をします。例えばヘイトスピーチにしても、暴力や人を憎悪する芽は自分の中にあります。自分はあるときにはそれを抑え、外のものを批判するけれども、実はそれは人間に内在しているものだということを人間がもっと知るようになると、案外そういった知恵が生きてくるのではないかという気がしています。この世界の中でそんな考えでは生ぬるいという意見もあるでしょうけれど、私は、哲学、思想、宗教、新たにつくり上げたような宗教ではなく、昔から続いている伝統的な、その地域の中で脈々と息づいてきた考えの中にはそういう核があると思います。それを大事にして、単に「みんなが言うから、そうしよう」と流れていかないように、自制していく態度が、これからますます求められるのではなかろうかと思います。
引用ここまで。
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以前、口蹄疫の問題に触れられていたことを思い出し、調べてみたのです。どの時代の言葉にも共通するのは、人間が自然一部であること、技術や文明がどれほど進歩しようとも、その一点は、これまでもこの先も変わらない。自らの分を知り、向き合うべき相手は己の中にある、と仰っているように感じます。
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) April 25, 2020