80年代に西日本新聞に掲載された記事から10本
1983年5月18日付 西日本新聞
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) February 26, 2020
この記事に始まり80年代に15本掲載。いずれも初著書「ペシャワールにて」以前。
「農村医療をやりたい」少年時代の夢を追って、一人の青年医師が世界の辺境といわれるパキスタン高地に移住し、住民の中に飛び込んで医療活動に取り組む。 #中村哲https://t.co/ZBFiPBDdzo
「十年以上は腰を据え、病気の治療と予防に役立ちたい」「現地の感覚からすれば、遊牧民やスラム地区のパキスタン人たちは難民以上に貧しく、それだけ医療の手が届いていない」「一期(四年)では現地実情をつかむのが精いっぱい。三期か四期いてようやく地についた医療ができる。それまで頑張りたい」
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) February 26, 2020
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1983年9月26日夕刊
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) February 27, 2020
「無医地区の住民のために、この生涯を」―来夏にペシャワルに赴任する中村哲医師(36)が、語学や熱帯医学などを事前勉強するため家族を連れてロンドンへ出発する。
「妻にはペシャワルに十年は住むと言ってきかしてるんですが、一生いるかもしれません」https://t.co/oAJ4wGE8wx
「医者として無医地区を見逃せないんです。事前勉強もたっぷりしてきます」「住民の衛生観念が低く、不衛生ゆえの病気が多い。貧富の差が激しく、病院にかかれるのも裕福な人だけに限られている。山岳地方はほとんど無医地区ばかり」「早くペシャワルへ行って、病気に苦しむ辺境の人たちを救わねば」
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) February 27, 2020
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この記事の17日前の、1983年9月9日付朝刊
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パキスタン派遣医を支援する会発足。パキスタンのペシャワールに行き、ハンセン氏病の治療や、山岳地帯での移動診療に当たる福岡県古賀町の医師、中村哲氏(36)の現地での医療活動を支援する会(ペシャワール会)が発会式を開く。https://t.co/aVidK5KBlI
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1983年12月20日付夕刊#中村医師 がペシャワール行きを決意したのは、パキスタン北西の辺境州で悲惨な現状に接して「強く心を打たれた」ため。「裸足の医者」が信条の中村医師は「少しでも役に立ちたい」と、ティリチミールの山に向かって「再びこの地に来て診療する」と誓ったhttps://t.co/MM5x6Bs8Yr
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) February 27, 2020
「火野葦平のオイで、文学の才能が豊かなヤツ。そして困った人を見捨てることができない、心優しい男」(佐藤事務局長)の中村医師。そんな人だから友人も多かった。初めは「やめろよ」と反対していた友人たちも、彼の熱意に「それほど思っているのなら」と支援に立ち上がった。
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) February 27, 2020
中村医師はロンドンからの手紙で「広く多くの人々の良心に支えられている実感が伝わってきます。これはみんなの事業で、私だけが行うものではありません。私の体験を分かち合い、みなさんと一体になって進めていきたい」とつづっている。
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) February 27, 2020
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1984年4月19日付朝刊
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) February 27, 2020
「医療に恵まれないパキスタンで一粒の麦になりたい」――はだしの医者を目指す #中村哲 医師(37)は、英国での熱帯医学研修を終えて、このほど一時帰国した。https://t.co/R2w5vKT85i
パキスタンでは熱帯地方独特の病気が多いため、熱帯医学研究の先進国、英国で8カ月間、臨床の基礎知識を勉強。中村さんは「ペシャワール会に多くの人が加わってもらい、感謝している。医療奉仕は私一人がやるのではなく、多くの人の善意を代行するもの。これからも支援してほしい」と話した。
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) February 27, 2020
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1984年5月7日付夕刊
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) February 29, 2020
「パキスタンへ仁術医」#中村哲 医師(37)は1978年のティリチミール遠征時にペシャワールを訪れ、下痢で死んでいく子供や満足に薬をもらえない多数の患者を見て、心を痛めた。「チャンスがあれば、ペシャワールのような所で仕事をしたい」と思い続けた。https://t.co/dTbXyZ36wK
「金や物を援助するだけでなく、医療を通じて心と心の交流を深めていきたい」「長く援助が続けられるような体制を現地に築いていきたい。援助は、単に医療の面だけではなく、貧困や教育の面でも必要だ。心と心の懸け橋になりたい」と静かに語った。
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) February 29, 2020
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1985年1月3日付朝刊
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「救え アジアの同胞 パキスタンで救援医療」#中村哲 医師(38)「同じアジアの同胞。苦しみも喜びも分かち合い、ともに生きていきたい」。決意してからの準備期間は6年間。これから10年間は日本から遠く離れた辺境の人々のために身を捧げる覚悟だ。https://t.co/TcAxxHenXF
「(遠征時)その時、私はビタミン剤をやるぐらいしかできなかった。子供だましのような処置に身を切られるようなやるせなさがこみ上げてきた」。後ろ髪を引かれる思いで村々を振り返っては、白く神々しく輝くティリチミールに密な誓いを立てた。「私は必ずここに戻ってきます。再びあなたにあいます」
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) February 29, 2020
「日の当たらぬ辺境の人々のため、ハンセン病患者根絶のため全力を尽くしたい」と言いながら、国際青年年に当たって「若い人たちが同じアジアで苦しむ人々の存在を知り、同胞愛に目覚め、あり余るエネルギーを生産的に生かしてくれれば…」と切実に祈っている。
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1985年8月1日付夕刊
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無医村地区の巡回診察も重要な仕事だ。この他、ハンセン病患者の足の裏の患部を保護する、患者用サンダルの生産を考えている。「住民の衛生観念が低く、不衛生のための病気が多い。今後も10年間ぐらいは病気に苦しむ患者の治療に全力を注ぎたい」 #中村哲https://t.co/ItAHVrkEc4
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1987年1月5日付朝刊#中村哲 医師(40)はクリスチャン。85年から86年にかけて、アフガニスタンからの難民と患者が爆発的に増え、徹夜の診療が続いた時、「自分の背後に福岡など、国内の多くの人々の誠意がある」ことが大きな支えになった。https://t.co/9d3kwkZXCO
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) February 29, 2020
同年のクリスマスには「ペシャワールで一番上等のケーキを買い込み、ハンセン病棟の40人の患者に切って与え、ささやかなクリスマスを祝った」。真冬の寒々とした医師の部屋で談笑が生まれた。「すべてはこの笑顔に凝集されて私は報われている」と思ったという。
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) February 29, 2020
この病気(らい病)は乳幼児期の家庭内感染が多いうえ、社会的偏見が強いため車による巡回診療が必要。「カラコルムの人々に”医”を運べ」と、巡回診療車募金活動を始めた。目標額の500万円に対し、170万円余りしか集まらず困っていたが、三菱商事自動車第二部が「商売抜きで」と、車の提供を申し出た。
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1988年7月15日付夕刊
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) February 29, 2020
ハンセン病などの治療活動を続けている #中村哲 さん(41)が、「アフガン難民問題と日本の国際化」をテーマに福岡市内で活動報告を行った。
「私が極めて不審に思うのは、ソ連軍の撤退ーアフガン難民の帰還という図式が直ちに描かれたことである。」https://t.co/CAiXwjEtdl
たとえば、難民が直ちにふるさとの農村に帰れるような状況ではない。それらの農村はただでさえ、荒涼たる谷あいにある上に、所によっては数メートルおきにロケットやミサイルの砲弾が突き刺さり、埋設された地雷は数知れない。全滅して村そのものが廃墟と化しているところもある。
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) February 29, 2020
肝心の「人間」が置き去りにされた援助によって、アフガニスタンはまるで大国のおもちゃのようになり、ずたずたに引き裂かれたと言えよう。他人様を助けることは何かを捨てることである。与えるとは自分の何かを失うことである。援助の原理は極めて簡明なことだ。相手のために徹底的に尽くすことである
— abe marwarid(アーベ・マルワリード) (@abemarwarid) February 29, 2020